https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180127-00010000-yomidr-sctch&p=1
障害児が生まれた現実、直視できなかったが…大江健三郎「個人的な体験」が表現する受容の過程
私の友人の医師は、ある総合病院の新生児科で20年勤めました。その間、毎年10人以上のダウン症の赤ちゃんが新生児科に入院してきたそうです。
総計で約200人です。そのうちの1人の母親は、「私には無理」と宣言して一切面会に現れませんでした。その赤ちゃんは、祖父母が引き取って育てています。
この親は、わが子の障害を受容できなかったのでしょうか? そうかもしれません。けれども、もしかすると、あと何年かすれば受容する心が芽生えるかもしれません。
「受容には時間がかかる」というのが、私がこれまでに多くの障害児の家族を見てきた結論です。
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自分の子どもを「怪物」、生まれたことを「罰」と受け止め
作家の大江健三郎は、1960年代に小説「個人的な体験」と、これに続く「万延元年のフットボール」を発表し、ノーベル文学賞を受賞しました。私にとって「個人的な体験」は、青年期に読んだ忘れられない鮮烈な作品です。
大江健三郎には知的障害を持ったご子息がいます。生まれつき後頭部が瘤(こぶ)状に膨らみ脳がはみ出ていたのです。医学的には脳瘤(のうりゅう)と呼ばれます。
「個人的な体験」は私小説ではありませんが、脳瘤を持って生まれて来た赤ちゃんの受容がテーマです。
主人公は自分の子どもにも自分の人生にも真正面から向き合おうとはしません。だから障害児が生まれたことを「罰」と受け止めます。これでは受容などできません。それが昂(こう)じて自分と赤ちゃんの関係を、「生涯の最初で最大の敵」と考えるに至ります。
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「死なせてくれる医師」のもとに連れて行ったが、ある結論に…
なかなか死なない赤ちゃんを見て、主人公はわが子を死なせてくれる医師のもとへ連れて行きます。
これもある意味では大変無責任で、他人の力によって自分の困難を解決してもらおうと思っているわけです。しかし、赤ちゃんの生と死の究極の場面で、父親はある結論に到達します。
障害児が生まれた現実、直視できなかったが…大江健三郎「個人的な体験」が表現する受容の過程
私の友人の医師は、ある総合病院の新生児科で20年勤めました。その間、毎年10人以上のダウン症の赤ちゃんが新生児科に入院してきたそうです。
総計で約200人です。そのうちの1人の母親は、「私には無理」と宣言して一切面会に現れませんでした。その赤ちゃんは、祖父母が引き取って育てています。
この親は、わが子の障害を受容できなかったのでしょうか? そうかもしれません。けれども、もしかすると、あと何年かすれば受容する心が芽生えるかもしれません。
「受容には時間がかかる」というのが、私がこれまでに多くの障害児の家族を見てきた結論です。
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自分の子どもを「怪物」、生まれたことを「罰」と受け止め
作家の大江健三郎は、1960年代に小説「個人的な体験」と、これに続く「万延元年のフットボール」を発表し、ノーベル文学賞を受賞しました。私にとって「個人的な体験」は、青年期に読んだ忘れられない鮮烈な作品です。
大江健三郎には知的障害を持ったご子息がいます。生まれつき後頭部が瘤(こぶ)状に膨らみ脳がはみ出ていたのです。医学的には脳瘤(のうりゅう)と呼ばれます。
「個人的な体験」は私小説ではありませんが、脳瘤を持って生まれて来た赤ちゃんの受容がテーマです。
主人公は自分の子どもにも自分の人生にも真正面から向き合おうとはしません。だから障害児が生まれたことを「罰」と受け止めます。これでは受容などできません。それが昂(こう)じて自分と赤ちゃんの関係を、「生涯の最初で最大の敵」と考えるに至ります。
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「死なせてくれる医師」のもとに連れて行ったが、ある結論に…
なかなか死なない赤ちゃんを見て、主人公はわが子を死なせてくれる医師のもとへ連れて行きます。
これもある意味では大変無責任で、他人の力によって自分の困難を解決してもらおうと思っているわけです。しかし、赤ちゃんの生と死の究極の場面で、父親はある結論に到達します。
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